突然ですが、愛媛の宇和島出身です。
「どこ?」とか「宇和島って島?」とか、よく聞かれますが。
もともとは伊達10万石の城下町。江戸から遠く離れた辺境の小藩です。
で、宇和島藩、幕末には辺境をいいことに
勝手に蒸気船を作ったり(黒船来航の3年後!)
江戸で脱獄した高野長英(蘭学者)をかくまうとか、結構無茶をしてました。
まあ、幕府にばれたらお家取りつぶしものです。
で、なぜこんな話から入ったかというと、
朝日新聞本社(今のフェスティバルタワー)の場所は、もともと宇和島藩蔵屋敷がありました。その宇和島藩の蔵屋敷長屋門が堺市に残っているという話を、以前聞いてまして、一度見に行こうと思ってたわけです。(余談ですが、うわじま橋跡も西大橋交差点近くに残っています)
なぜ長屋門が100年以上残っていたのかという話が面白くて、
明治になると、蔵屋敷は転用・取り壊しが相次いだわけですが、当初朝日新聞の家屋等に利用されることで生き延びました。
日露戦争になると、今度は捕虜収容所建設のため堺市に移設されます。
もちろん一から作るより簡単安上がりで工期も早いのですが、わざわざそこまでしなくてもと思うのが一般論だと思います。
ただ、さかのぼる1899年、日本も参加してオランダ・ハーグで第1回万国平和会議が開かれ、捕虜、傷病者に対する人道的な扱いが定められ、一等国の仲間入りをめざす日本は、とりわけ捕虜の待遇に気を使ったそうです。
また、大林組の社史にも、浜寺捕虜収容所をわずか21日間で完成と記述があるようにだいぶ政治的な要素が絡んでいたのかなと思われます。
収容所内には、診療所、礼拝堂、パン工場などが設けられ、日本語教室も開かれようです。まだ一般家庭に電気が行き届いていない時代に、収容所内ではどこも電灯が点くなど、私たちがイメージする捕虜収容所でなく、牧歌的な状況だったようです(ハーグ陸戦条約からいくと、本来はこうでなければいけないんですが)
収容者には運動のために外出も許可され、毎朝隊列を組んで出掛けたり、地元の住民との交流もあり、親しくなって家に招待される捕虜もいたという。
国家間の緊張(=戦争)と市民の温かい交流(=日ロ両国での捕虜と市民の交流)が矛盾せずに行われていた理想の形だったようです。
未見ですが、浜寺公園の一角には「日露友好之碑」が建っているそうです。
捕虜の中は、後に「イスラエル建国の英雄」と呼ばれるユダヤ人のヨセフ・トランペルドールもいて、親切な扱いにいたく感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓い、その後パレスチナにイスラエルを建国しました。
話はだいぶ逸れましたが、朝日新聞社屋から捕虜収容所の施設として利用され、いろいろな歴史を間近で見てきた宇和島藩蔵屋敷長屋門ですが、日露戦争終了後、個人に払い下げられ、ひっそりと現在まで残ってきた(はずでした)
(すみません、長くなったのでその②は後日)